川原泉の漫画の主人公は成績について抗議に行ったがために
条件の良いバイトを逃した。
私は締め切りギリギリでサークルの原稿を落とした。

バイトと原稿、重要度には雲泥の差があるがいずれにしろ担当教官の
勝手に巻き込まれたという点においては私と彼女は共通している。


  Need not to Remember 後編


ドイツ語に不可をつけられたまま迎えた夏休み、私は跡部先生から受け取った
住所へやってきていた。
目の前には高くて頑丈な鉄の門、その向こうには維持するのに手間がかかりそうな
敷地が広がっていて、真ん中に城みたいなでっかい洋館が見える。
どうにも狭い日本の国土に優しくないこんな所に何で私がやってきたのかというと、
一言で言えば金のためである。

英文学科研究室へレポートを取りに行った帰りに出くわした時、
跡部先生が私に寄こしてきた住所は何と当の教官の自宅だった。
先生曰く、夏休みのしばしの間自分の論文やら講義用の資料やらを打つ手伝いを
する奴がほしい、とのことで丁度でくわした私に白羽の矢を立てたようである。
要するに跡部先生は短期バイトの口を私に持ってきたわけだが、
ドイツ文学科の学生にさせればいいものを何だってわざわざ他所の学科の奴を
呼ぶのかは意味がわからない。とりあえず時給は凄くいいのだけれども。
しかも跡部先生は私が滞在する間、原稿やイラストを描く環境も用意する、
と言ったのだ。

『どうせ休みの間も何か描くんだろ。』

そう言った時のわかってんだよ、フフン的な先生の態度は忘れられない。
(覚えておく必要のないことだけど)

そういう訳でこれといったバイトも予定も見つからなかった私は人んちに泊まるのに
最低限必要なものと画材をつめた鞄を持って今跡部先生の自宅前にいるのだ。
そもそも根本的に考えれば教官の、それも野郎の家へ1人でノコノコ行くのは
正気の沙汰ではない。
もし何か事があったらTVのワイドショーに騒がれた挙句、
お茶の間の皆さんに身から出た錆だとさぞかしそしられるだろう。
だけど、私は来てしまった。もしかしたら私は待遇のよさに
釣られたんではなく跡部先生の真意を探りたいという欲求に飲まれていたのかも
しれない。
別れた女(忍足先生の言うところによれば)と同じ顔をしている私を呼んで
一体先生はどういうつもりなのか、それを知りたいと。

そんなことはともかくとして、わざわざくそ暑い中やってきたんだからまずはこのバカに
高い門を通してもらわねばならない。
インターホンはどこだろうかとキョロキョロしていたその時だった。

?」

ん、この声は。

「忍足先生!」

サークル顧問の思わぬ出現に私は思わず声を上げた。

「奇遇ですねー。」
「そらこっちの台詞やで、何でお前が…。」

髪をかきあげながら言う忍足先生に私はかくかくしかじかと事の次第を要約して話す。
忍足先生はうんうんと頷きながら聞いていたが、聞き終わるとハァと呟いてもう一度
髪をかきあげる。暑いんならさっさと切った方がよろしいと思うのだが
この人がそうすることは一生あるまい。

「そうかぁ、跡部が手伝いの学生おる言うてたんはお前のことやったんか。」
「そういうことで。」

私は画材を詰め込んだせいで肩からずり落ちる鞄を直す。

「忍足先生は何でまた。」
「俺は毎年ここによばれてんねん。何せここ環境だけはごっつええからな、論文書いたり考え事するには丁度ええ。」

それで先生がいる理由はわかった。
が、さっき言ったとおり私にはどうにも解せないことがある。

「忍足先生、」
「何や。」
「跡部先生は何で私をよんだんでしょうか。」

私の問いかけに忍足先生の口が一瞬動かなくなった。どうやら硬直してしまったようだ。
ちょっとばかり沈黙が続く。

「まぁ、あれやな。跡部はああ見えて淋しがりやから、人数が多い方が
楽しい(おも)たんかもしれん。」

忍足先生は言って、石の門柱に取り付けられたインターホンを押した。
先生の言ったことは明らかに外れてると私は思うのだが、これ以上深く
突っ込んでもしょうがないので諦めた。

そんでもって門が開けられ無駄に長い距離を忍足先生と歩いて屋敷の前に
辿りついたらば、如何にもな感じの執事さんに迎えられた。
そして忍足先生と共に執事さんの後について気色悪いくらい静か
―丁度こないだ行った大学の研究棟みたいに―な屋敷の廊下を歩いて
通された部屋には

「よぉ。」

でかい窓から入ってくる光を背に、跡部景吾先生ご本人が立っていた。

その直後は何だか頭が混乱していたので時間がどう過ぎていったのか
あまりよく覚えていない。
いや、正確に言えば慣れない場所で自分のペースを見失い、
その時のことが現実であるという実感がなかった。
自分が泊まる部屋に案内されてやっとこさ荷物を解いたとか
妙に豪華な夕食を頂いたとか、記憶はあるにはあるのだが
まるで奇妙な夢を見たけどその内容は断片的にしか覚えてないかのように
はっきりしてないのである。
そもそも跡部先生と話をしたかどうかすらあやふやなのだから
思うよりも疲れていたのは間違いない。

そういう訳でふと気がつけば私は持ってきた寝巻きに着替えて
ベッドのふちに腰掛けていた。
西洋の貴族かなんかじゃあるまいし、1人では持て余す位でかい代物だ。
でかいのはベッドだけではない、今回私に与えられた部屋自体広くて
金がかかった内装だ。
跡部邸が元々豪奢な造りであることを差し引いても短期バイトの学生相手には
随分と過ぎた待遇である。どう考えたって向こうさんが損をしているには
違いないのにやはり跡部先生が私を雇ったのには何か理由があるのか。

『跡部はああ見えて淋しがりやから』

昼間に忍足先生が言ったことが一瞬頭をよぎったが、私は冗談じゃない、
と1人首を振った。

次の日、私は目覚ましのアラームもないのにきっちり定時に目を覚ました。
昨日の疲れは相当のものだったのか、物凄くぐっすり眠っていたようである。
今までになく非常にすっきりした目覚めだ。

「さて、今日からしばらく頑張るかー。」

私は伸びをして寝床から出ると、荷物の中からタオルを引っ張り出して顔を洗いに
いこうと部屋のドアに向かう。

実を言うと私が泊まっている部屋には内風呂や洗面スペースもちゃんと
備え付けられていた。
したがってわざわざ部屋を出て顔を洗いに行く必要などなかったのだ。
しかしあまりに慣れない環境だった為に私はこの時迂闊にも
そのことを忘れていたのである。
そしてそんな私が部屋のドアを開けて廊下に出たらとんでもない光景が待っていた。

「よう。」

危うく朝っぱらからショック発作…を起こしそうになったが
いつかのように奇跡的に耐えた。
部屋の扉を開けた真正面、ろくに髪もとかず突っ立っているひょろ長い姿、
言うまでもなく跡部景吾先生ご本人である。

「お、おはようございます。」

私はぎこちなく笑った。多分相当無理のある顔になっているはずで、
跡部先生はそんな私を見るとクッと笑った。

「ホント俺を見る度幽霊でも見ちまったような面するのな、お前は。」

だからアンタは私にとって怨霊に近いんだって!
大体、大学の跡部教官親衛隊とは違って、私はこの人が朝っぱらから
青白い顔でヌボーッと部屋の前に
突っ立ってるの見て驚かないほど出来た心臓は持ち合わせていない。

「あ、あの、どうかなさったんですか。」
「別に。通りかかっただけだ。」

嘘吐け、通りかかっただけの人が壁にもたれて腕組んで立ってるものか。
始めっから私が出てくるのを待ち構えてたのは明白だろうが。
あ、ひょっとしてこの人…

「今更気に食わない面の奴を雇って後悔してても私は関知しませんよ。」

そう言ってやったら跡部先生はクッというあの嫌な笑いを漏らした。

「後悔するくらいなら始めっから呼ぶか、バーカ。」

言葉だけ聞いたなら単にこの教官、一遍ぶん殴ってやろうかってなノリだが、
生憎表情がそうじゃない。
どう反応したもんかわからないままに、私はどこか虚ろな目つきで
自分を見つめる教官を見つめ返すしかなかった。

そんなアクシデントを経てから身支度を整えて朝食の席に行ったら、
跡部先生は勿論忍足先生も既に来ていた。

「おう、おはようさん。」
「おはようございます、忍足先生。」
「何や、あんまり寝てへんみたいな顔しとるな。」
「いや、寝れたことは寝れたんですがね。」

起きた直後におかしな目に遭ったから。
そう思いながら私はでかい食卓の適当な位置に着きながら
跡部先生の方をチラと見やる。
当の先生様の目はさっきのように虚ろではなかった。

度重なる教官の奇行はともかく、肝心の仕事は始まる。
朝食の後、私は跡部先生に連れられて彼の書斎にやってきた。
忍足先生は朝食を済ますや否やさっさと姿を消した。
多分今頃自分の部屋にすっこんで何やら思索に耽ってるものと思われる。

で、私はというと今デスクトップパソコンの置かれた机の前に座らされて
跡部先生の指示を受けているところだった。

「仕事の内容は前に言ったとおりだ。お前には書類作りの手伝いをしてもらう。」
「はい。」
「基本は文字打ちだ、それ以外のこともしてもらうかもしれねぇが、とりあえずだ、」

私のすぐ横で喋っていた跡部先生はふと近くの棚をゴソゴソし出す。
そんで私の目の前にバサバサと大量の紙の束を積み上げた。

「今日はこいつの清書だ、書式はそこの紙に書いてあるからそれに従え。」
「はい。」
「急ぐんじゃねぇぞ、間違えられたら面倒くせぇ。元々お前にスピードなんざ
求めちゃいないしな。」

いちいち一言多い人だ、とは思ったが聞こえなかった振りをしてさっさと
ワープロソフトを立ち上げると私は与えられた仕事に取り掛かった。
跡部先生は別の机―これまた上等そうな木で作られたやつ―に座って
何冊も本を広げ始める。
しばらくは2人とも何も喋らなかった。
部屋には紙をめくる音と私がキーボードを叩くガシャガシャという音だけが
やたら鳴り響いていて、それが余計私に場違いな所にいることを
思い知らせてくる気がする。
どれくらい時間が経った頃だろうか、与えられた量の3分の1を
こなしたところで私はふと口を開いた。

「跡部先生、何で私を雇ったんですか?」

唐突な私の質問に、跡部先生は怪訝そうに本から顔を上げた。

「何でんなことを聞く。」
「いやぁ、だって先生とは今まで授業以外に接点なかったから。」
「別に理由なんざねぇ。ま、強いて言えば原稿落としてしょぼくれてる
ガキを見るに見かねたってとこか。」
「な…」

それは誰のせいだと思ってんだ、この野郎。
と私がうっかり言いかけた瞬間、跡部先生は意味不明のことを呟いた。

「どのみちこいつは実験だ。」

その台詞もあの漫画の助教授の台詞と酷似してたのでやめてくれ、と私は思った。
これ以上川原泉の作品を髣髴とさせるハプニングはまっぴらだ。
(川原泉先生は大好きだが)
所定の期間まで我が身が無事であることを祈ろう。

仕事は結構サクサク進んだ。跡部先生がやれ、と言った量は
かなりとんでもなかったけどこう見えてもキーボード捌きには自信がある。
先生も私の仕事ぶりにはご満足のようでなかなか上出来だと
お褒めの言葉をくださった。

とりあえずこの日は朝の妙な出来事を除けばつつがなく一日を終えることが出来た。
これで先生が変な言動をしなけりゃこの職場は悪くないと思う。

そうして次の日以降私は朝と2,3時間と夕方までの数時間、跡部先生の書斎で
キーボードをカタカタ言わせていた。
私が仕事をしている間跡部先生は難しい顔をして本を読んだり手で
何かを書いてたりしているのが常だ。
しかし時折手を止めて私の方をじっと見ている時もあってその為に
何度か居心地の悪い思いをした。

そんな風にして幾日かたった頃だった。

この日、仕事を一段落させた私はサークルの漫画原稿製作に手をつけていた。
跡部先生は雇用条件の中に私が創作活動をしやすい環境を提供することを
含めていたが、なるほどここはうってつけである。
静かで漫画の構想を練るのにぴったり、朝っぱらから近所のガキがバタバタと
うるさい部屋で原稿やるよりずっといい。忍足先生も太鼓判を押すわけだ。

そうして家から資料用に持ってきた本をめくりながら漫画のシナリオを
考えていた訳だが、

「あ。」

私はふと手を止めた。慌てて机から離れ、自分の荷物をがさがさ漁る。
しかし次の瞬間、私はあーあ、と呟かねばならなかった。
資料にしてたゲーテの詩集を持ってきてないのに気がついたのだ。
今手元にないとちょっと不便なのだがどうしたものか。

「そうだ。」

ちょっと考えた私はいいことを思いついた。

「跡部先生んとこから借りてこよ。」

一応ドイツ語に関わってる人なのだから持ってないことはないだろう。
そうと決まったらと私は早速部屋を出て跡部先生の書斎へ向かった。

書斎に来た私はコンコンとドアをノックした。が、反応がない。
聞こえていないのかともう一度叩いてみたがダメのようだ。

「跡部せんせーい。」

声をかけてみても一緒だ。どうやら先生は今部屋にいらっしゃらないらしい。
しょうがない、事後承諾と洒落こもうと私は勝手にドアを開けて中に入ってしまう。
跡部先生はやはりいなかった。
どこかへ出かけているのだろうか。しかし今はそんなことはどうでもよい。

「さて、と。」

私は目的の本はあるかしらんと部屋をざっと見回した、が、

「う、あ。」

資料を探す前に思わずおかしな声を漏らしてしまった。漏らすなって言う方が無理だ。
部屋に設置された作り物の暖炉、そのマントルピースの上にある銀の写真立て、
その中に入ってるのはカラーなのに随分と色褪せた一枚の写真だ。
多分随分前のもので、写っているのは若かりし頃の跡部先生と忍足先生と、
その他諸々の知らない兄ちゃん達、そして…

「勘弁してよ。」

私は呻いた、そうするしかなかった。
だって若き日の跡部先生の隣に写ってるのは、まるでドッペルゲンガーのごとく
自分に良く似た女性の姿だったからだ。
これが噂のであることは疑いようがなかった。
散々似てる似てると言われたがまさかここまでとは誰が思っただろうか。

写真を見つめたままぼんやりとしてると

「おい。」

背後から声をかけられて私は激しく動揺し、硬直した。
おそるおそる振り向けば、そこには鬼みたいな形相の跡部先生が立っている。

「お前、許可なく入って何してやがる。」

私は震える指でマントルピースを指差した。
ビビリまくったせいでろくに声が出せなかったのだが跡部先生には
それで十分だったらしい。

「見たのか。」

見たんではなく見えたのだ。英語で言えば"see"である。

「学生の頃に撮った奴だ、それ以上でも以下でもねぇ。」

何も言えたもんじゃないのでとりあえずここは大人しく黙っておく
私だが内心は動揺しまくっている。そう、まるで夏休み前のあの時みたいに。
そして跡部先生の目つきも同じくあの時みたいに剣呑な雰囲気だったものだから
私は思わずその場から逃げ出した。

書斎を飛び出した私は忍足先生が庭でくつろいでるのを窓から
発見してそこへ直行していた。

「忍足先生。」
「どないしたんや、メッチャ息切らしてるやん。」

私はハァハァ言いながら早口でさっきのことを話す。
忍足先生は落ち着いた様子で私の話を聞いていたが、またかあいつは、
と小さく漏らした。

「ご執心もほどほどにしてもらわんと、たまらんな。」

まさにそれである。

「あの写真、一体何なんですか。」
「跡部ととあと中学ん時の仲間で海行った時のやつや。
まだ置いてるんのに吃驚(びっくり)したけどな。」
「私、跡部先生が何考えてんだかますますわからなくなってきたんですが。」

私がため息混じりに呟くと忍足先生は遠くを見るような目をした。

「俺もな、こないだ跡部に聞いたんや。何でをここによんだんやって。」
「はぁ。それで跡部先生は何と?」
「知りたいんやと。に生き写しの奴相手に自分が耐えられるんか、
自分と関わる時と同じ顔同じ声でお前が一体何考えてどない行動するんか。」

何だと?私は固まって一瞬動けなかった。何だか背中が冷たい。口の中が乾いている。

「それで」

しばしの絶句の後に私は言った。

「その先に跡部先生は何をお求めなんでしょうか。」
「俺かて知りたいわ。」

どこまでも不気味な話ではあるがそれでも仕事を途中で投げ出す気にはなれず、
私は次の瞬間にはまた跡部先生の書斎で、マントルピースの写真立てから自分の
そっくりさんが見下ろしてるような感覚を覚えつつキーを叩いていた。
跡部先生はそんな私を時折本の山の隙間から観察しては何か考え込んでいるような
顔をする。
どうにも異空間くさい職場環境で仕事をしているうちにお茶の時間になった。

その時間は最悪とは言わないまでも良いとは言えなかった。
居間で私は落ち着かない思いをしながら紅茶をかき混ぜていて、
差し向かいに座っている跡部先生は何を考えているのか視線を
自分のカップに注いでいる。
せっかくの休憩時間だというのに空気が妙に重い。
まだ忍足先生がいたらよかったのだが先生は折悪しくどっかへ出かけて
この場にいなかった。何か話すべきだろうかと思うのだが跡部先生が
どういう話を好むのだかも全然見当がつかない。
黙ったまま紅茶をすすっていたその時だった。

。」
「はい。」
の話を聞きてぇか。」

唐突だったから私はここに来てから何度目かわからない動揺を覚えたが首を縦に振る。
跡部先生はフンと鼻を鳴らすと自分のカップを取り上げて一口すすった。

と俺が付き合ってた話は。」
「前に忍足先生からチラッと。」
「ならまだ話は早いな。」

先生は言って話し始めた。

先生がと知り合ったのは中学の頃だった。
きっかけは本当に些細なことだったらしい。
付き合ってくれ、と言ってきたのは向こうの方だった。
当時から女子陣にモテていた跡部先生だが意外なことにこの頃は
特定の相手なぞいなかったという。
で、具体的に先生の中でどんな心理が働いたかは知らないが、
とにかく先生とは付き合うことになったのだ。

跡部先生と彼女はとてもうまくいっていた。
という人は気がしっかりしていてそれでいて慈愛の心も持ち合わせた
野郎共の理想みたいなイイ女だったらしい。
(そうなると顔だけ似てる私の方は意思が薄弱で冷淡でダサくて
野郎ウケしない奴ってことになるがそこは深く考えないでおく。)
子供の頃から他所では非常に尊大な態度の跡部先生だったが彼女の前では
まるで子供みたいに素直にしてたらしい。
それが功を奏したのか、普通なら有り得ないくらい仲は続いていたようだ。

だけど、いざ大人になってくるとありきたりなドラマのシナリオみたいに
面倒なことが2人に降りかかった。
跡部先生の両親及び親戚一族ご一同様が先生ととの仲に猛反対したのだ。
その後は本当にパターンどおりの結末が待っていた。

は跡部先生から離れた。
身分違いだから、迷惑はかけたくないなんぞとテンプレートでなぞったみたいな
お決まりの台詞を言って。

当然跡部先生は打ちのめされた。
何度も彼女に戻ってきてくれ、と懇願したらしい。
だけどはすんごい頑固だった。
先生がいくら懇願しても絶対に動かされることはなかったという。

そうして先生は打ちのめされたまま時だけが過ぎていったのだ。

「その後が別の奴と結婚したって話を聞いた。いくら求めたところで
最早どうにもならなくなっちまったって訳だ。」

跡部先生はそこで一旦口を閉じた。
私はティーカップを握ったまま俯く教官の姿を見つめる。
その時の気分を何と言ったものか、まるっきりわからなかった。
一言で言えば、跡部先生が可哀想な気がした訳だが
どうにもそう表現してしまうと偽善っぽさが強くてしっくりこない。
かと言っていくらテンプレート化されたような話とはいえ完全に他人事として
聞いていられる訳でもなくて、ただただ無表情と微笑のあいのこみたいな
訳のわからん顔をして座っているしかない。

、お前ならどうする。」

しばらく黙っていた跡部先生が紅茶を一口すすって言った。

「もし自分が好きでたまらなかった相手にいきなり別れてくれって
言われてどれだけこっちが望んでも元に戻れない状況になったら、お前はどうする。」
「忘れます。」

何でそんなことを言ってしまったのかはわからない。
冷静に考えてみれば、自分だって同じ目に遭ったらそう簡単に忘れられるはずが
ないのはわかっていた。
それに多分私より以前に誰かが―多分忍足先生辺りが―同じようなことを
言っていたはずである。
だが、この人の前ではそう言わずにおれなかったのだ。
跡部先生はと言うと、そんな私の有り得ない発言にただ小さく笑みを
浮かべているだけだ。

「何故忘れようとする。」
「覚える必要のないことだからです。」

重ねて問いかける跡部先生に、またも間髪いれずに答える私。

「私の好きな漫画家も言ってます、『人間は忘却の生き物である』って。」

跡部先生が何か言うかと、私は一旦言葉を切ったが先生は別に何も言わない。
また紅茶をすすって続けてみろ、と無言の指示を下すので、私はそれに従う。

「そりゃ口で言うのはたやすいのは嫌っちゅうほど知ってますけどね、
いつまでも忘れられずに辛いまま引きずってたらイカれちまいますよ。
それにもったいなくないですか、人生他にも面白いことがいっぱいありそうなのに過去の痛みにとり憑かれたまんまでそれに気がつかないんじゃ。」

ひどく勢いよく喋ったのでだんだん息が切れてくる。
私はまたも一旦言葉を切ると、息を深く吸ってから言った。

「無理に忘れろ、なんて言うつもりはないです。
でも、無理に覚えておく必要もないと思います。
先生の場合、何となく忘れるのが怖くて無理に覚えておこうとしてる節が
ある気がするんで。」

意味不明で根拠は薄弱だしつじつまが合ってない発言で、
正直バカとしか言いようがない。
しかし、紅茶を飲みながら私の話を聞いている跡部先生の顔は穏やかだった。

「てめぇならそういうと思ったぜ。」

先生は静かにおっしゃった。

「実験成功だ。」

どこかへ出かけていた忍足先生が戻ってきたのは丁度その時だった。

こうしてドイツ語教官・跡部景吾氏の家で過ごした夏は過ぎていく。
朝から昼間まで跡部先生の書斎で書類打ちに精を出した後、空いてる時間はゆっくりと漫画原稿を描くのに費やした。
忍足先生も伴って3人で気晴らしに祭りに出かけたりもした。
なかなか悪くない夏休みだったと思う。

その後、私のもとにドイツ語の欄が『不可』から『優』に訂正された成績表が
大学から郵送されてきた。

「結局、何だったんでしょうかね。」

夏休みが明けて後期の授業が始まった頃、キャンパス内を歩きながら私は言った。

「結局跡部先生が何をしたかったのか、全然わからないんですが。」
「別にええんちゃう。」

隣を歩いていた忍足先生は丸眼鏡を押し上げた。

「とりあえずお前のおかげで跡部も何かふっきれたみたいやし。」
「そんなもんですかね。」

実際、忍足先生の言ったとおりで夏休み明け最初のドイツ語の講義、
跡部先生は何事もなかったかのように相変わらずえらそうな態度で
講義に臨んでおられたが、前期よりもすっきりした雰囲気をまとってることに
私は気がついた。

多分、他の学生は誰1人として知らないだろう、この人がついこないだまで
無駄に重い荷物を抱えていたことを。

そんでその日の授業が終わった時である。

。」

教室を出ようとしていた私は跡部先生に呼ばれた。

「はい、何でしょうか。」
「お前、結局原稿はどうした。」
「間に合わせましたよ、ちゃんと。」
「ほぉ、結構なことだ。」

褒めてるのかからかってるだけなのか判然としない言い方なのでとりあえず
そら、どうも、とだけ言っておく。

「学祭で配る会誌に載せてるんでよかったら見てください。」
「気が向いたらな。」

言って先生はくうっと伸びをした。

「そろそろ昼飯に行くか。お前は?」
「私も丁度行くところです。」
「そうかよ。」

そんでもって次の瞬間には、私と跡部先生は2人して学食に向かっていた。

「跡部先生。」
「あんだ、漫画オタク。」
「私の顔はやっぱ誰かに似てますか。」
「似てる訳ねーだろ、バカ。」
「そいつは結構。」

最早跡部先生にとって昔の忌まわしき出来事は覚えておく必要のないことになった。
よってこの先彼の中で私は誰かと混同されることなくちゃんと
』として処理される。
平和に昼飯を食うためにもそれは本当に結構なことだと私は思う。

   das Ende


作者の後書き(戯言とも言う)

恋にしろ友情にしろ、人間関係で悩んでる人を前にいつもまともなアドヴァイスをあげられたことがない。
私がいつも言うんは

『(どんな記憶も)時間が経ったら嫌でも忘れるんやから、大丈夫。』

の一言だけ。
それでその人が救われるんかどうかは知らんけど、いつか辛いんを乗り越えられたらええなぁ、と思う。

2005/07/17

参考文献
川原泉:「Intolerance──あるいは暮林助教授の逆説(パラドックス)」,『中国の壺』(1997,白泉社)


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